なぜ「違い」を常に意識することが大事なのか?
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普段セミナーで話を聞いたり、言語学習や、新しいことを学んだり復習したりするとき、
我我は「違い」を意識しているだろうか?
敢えて違いを意識していないと、気がつかないのではないだろうか。
特に言語を習得しようとするとき、もちろん、単語の違いは意識するだろうけれども、
文法上の違いも意識すると良い。
例えば、「ダビデの息子」と言った時に、
英語では、
David's son
という言い方と、
the son of David
という2種類の言い方が英語ではできる。
しかし、日本語では、片方の言い方でしか表現できない。
ダビデの息子、という表現方法しかないのである。
英語でいうところの
David's son
としか言いようが無いのである。
息子、ダビデの。
とは言えないのである。(言えないこともないが、非常に違和感がある。)
ちなみに、トルコ語では、
ダヴトゥン(ダビデの) オウル(息子)
となって、日本語と同じ言い方しかできない。
つまり、英語でいうところの
David's son
という方式でしか表現できない。
これに対して、ペルシャ語(イランの言葉)では、逆にほぼ常に、
単語を後から修飾する。
英語でいうところの
the son of David
のほうだ。
ペサレ(息子 of)ダーヴット(ダビデ)
という語順になる。
(ただし、ペルシャ語では右から左にアラビア文字で書くから、印字すると左右は逆になるが)
この違いはときに厄介である。
というのも、
~の、~の、~の、~の、~の、って延延と続く表現があったとき、
英語だと対応可能だが、日本語に訳す時、
同時通訳するときに、文章の最後まで聞かないと訳せないからだ。
例えば、
僕の父の家の庭の芝生の葉緑素の吸収スペクトルの波長が400nmのときに、、、
とかを日本語で聞いていて、それをペルシャ語に同時通訳しなきゃいけないとき、
トルコ語だったら、楽である。聞いた順番のまま頭から訳していけばいい。
「僕の、父の、家の、庭の、芝生の、葉緑素の、吸収スペクトルの、波長、、、」
ってそのままトルコ語の単語のラベルを上から貼っていけば通訳になる。
でも、これがペルシャ語だったら、最初に、
「波長」って言わないといけないのである。
修飾語がどんどん長くなっていけば長くなるだけ、ずーっと最後の単語が出てくるまで待たないといけないのである。
このリテンションタイム(記憶の保持時間)を長くしなければいけないときの苦しみをわかっていただけるだろうか。w
ペルシャ語を同時通訳するときは、日本語と語順が逆なので、
「僕の父の家の庭の芝生の葉緑素の吸収スペクトルの波長が400nmの時に、、、」
と聞いたら、
「波長が400nmの時に、」
という言葉を聞いてやっと、ペルシャ語に訳し始められるのである。
ちなみに、ペルシャ語での語順は次の通り。
「時に、波長、吸収スペクトル、葉緑素、芝生、庭、家、父、私、、400nm」
こういったことを念頭に置いておかないと、海外旅行は厳しい。
「いやいや、自分ペルシャ語使わんし」という人も居るだろう。
そういう考えでは、海外旅行は厳しい。
なぜなら、世界は英語が母国語ではない人と会話しなければいけないからだ。
なので、できるだけ文章は短く、シンプルにした方がいい。
これを知っているだけで、コミュニケーション技術は格段に向上する。
長く複雑な文章を理解して和訳できるように、もちろんなっていないといけないけど。
(京都大学の入試の英語のように、英語の構文がわかってないと、訳せないし、
あれが解けないと、やっぱり論理的に英語の文章を理解することは無理だ。
実際に、あのやたらに1文が長い英文を正確に訳せて入試を突破してきている合格者のほうが、
英語の他の分野の理解も説明も適応能力も高い。)
いざ、自分の言いたいことを表現するときには、極めてシンプルに、一文一文短くしたほうがいい。
学習というのは、これまで学んできたことと、
新たに学ぶこととの違い(差分)を理解することだ
とも言われている。
言語間の違いをいつも念頭においておくと、
多言語学習も、かなり楽になる。
多言語ができると、見える世界が全くかわるので、
かなりおすすめ。
というわけで、常に違いをはっきり区別して学習するようにしていきましょう。